明治・大正・昭和の ベンチャーたち
「岩崎弥太郎」維新の政商ベンチャー(第3回)
日本海運を独占
三井との海戦に勝利をおさめた弥太郎の前に立ちはだかるのは外国汽船だった。先の台湾派兵で外国商船会社の非協力に、明治政府は危機感を抱いていた。三井系の郵便汽船会社を三菱商会に吸収させ、三菱に巨額な補助金を与えたのも、民族系船会社を守るが目的だった。以後、産業育成・保護政策は日本の伝統的な産業政策として定着を見ることになるのだが、強敵として登場したのは米国の船会社パシフィック・メール社で、海戦の舞台になったのは上海航路だった。闘いの手法は同じで、パシフィック・メール社が取った戦術も、やはりダンピングである。政府の支援で何とか切り抜けたものの、明治9年に今度は英国系の船会社ペニュシュラル・オリエンタル社が立ちふさがるのだった。
香港、上海、横浜に航路を開き、三菱に挑戦する好戦的な姿勢を示している。弥太郎は運賃を引き下げ、マスコミを利用し、外国勢に対する国民の敵愾心を煽り、他方では政府に支援を求め、国家を挙げての闘いの体制を作った。この過程で弥太郎は経営合理を実施して、大胆なリストラを行っている。経費を節減し、運賃引き下げに対抗できる経営基盤を築こうというわけだ。半年間に渡る壮絶な闘いは、三菱の勝利に終わり、日本海運の記念すべき金字塔を打ち立てる。そうこうしているうちに、薩摩に燻っていた反政府運動が暴発し西南戦争が勃発する。もちろん弥太郎は政府軍につき、全面的に協力したのはいうまでもない。この内戦で政府が支出した軍事費は4150万円。そのうち三分の一が三菱の懐に転がりこんだともいう。同時に三菱は日本の海運をほぼ独占することにもなる。
勢いをかり、三菱は業容の多角化に乗り出す。為替業務、海上保険、倉庫業などの分野である。三菱と契約を交わせば、為替の世話から海上保険、さらに産品の管理まで、ほぼ独占体制を築く。つまり三菱の口座で為替を組んだものは三菱の船舶を使い、荷物には三菱の保険をかけ、荷揚げには三菱の倉庫を使うという具合に、三菱の世話抜きには貿易ができない独占的仕組みを作り上げたのである。しかし、独占に対する風当たりは昔も今も強い。三菱の独占を許すまじ!という声が、在野からわき起こる。三菱の成長は早く、それだけに無理を重ねてきている。こういう場合、弱者は連合を組み、独占に疑義を唱えるものだ。その音頭を取ったのが、この場合も三井財閥であった。米国や英国の商船会社と闘い、民族の英雄とまで賞賛された弥太郎は窮地に立たされるので ある。
闘い半ばの死
三井物産の益田孝はなかなかの知恵者である。益田が渋澤栄一など財界関係者に広く三菱独占の弊害を訴える一方、地方の中小船業者に呼びかけ、別途船舶会社を設立する。設立総会には渋澤のほか、後の川崎財閥の当主となる川崎正蔵などの財界人に加え、地方の豪商、荷主、船舶業者らが結集した。緒戦こそ三菱は完勝をおさめ、三井系船会社を蹴散らした。しかし、三井は三菱の独占に沈黙したわけではない。益田を中心にして体制を建て直し反三菱勢力は再結集する。発起人には三井武之助、大倉喜八郎、川崎正蔵、渋澤喜作など経済界の重鎮が顔を揃え、さらに全国各地の豪商らが参集した。
前回と異なり、今度ばかりは強力に衣替えしていた。資本金は600万円に増強。英国製新鋭艦6隻を含む24隻体制を作り上げた。対する三菱は27隻だ。反三菱勢力は団結して追い上げてきたのである。悪いことは重なるものだ。弥太郎と盟約関係にあった大久保は暗殺され、大隈重信も政変で役職を解かれ、政府の中枢には三菱をバックアップする者は誰もいない。対する三井勢には、伊藤博文、井上馨など長州勢力を味方につけた。益田孝は井上に取り入り、政府による保護の約束を取り付け、挑戦状を突きつけたきた。争いに民権派の連中も参戦し、弥太郎たたきに拍車が加わる。マスコミも反三菱勢に味方をして筆を揃えて三菱を非難するのであった。何のことはない、三井勢はかつての弥太郎が取った戦術をそっくり真似て、三菱の追い落としを企てのである。
人びとは、この闘いを「第二次三井三菱海戦」と呼んだものだ。競争手段は相変わらずダンピングである。利用客に景品をつけるなどのアイデアも採用された。しかし、相手は政府の保護のもとにある船会社。三菱は追いつめられた。要するに、やりすぎがとがめられたのである。さすがの剛腹な弥太郎も今度ばかりは参った。営々として築き上げた全財産を失うかも知れない事態だ。激務と深酒の日が続き、心労と酒が過ぎた。海戦がまさに頂点に達しようとしているとき、弥太郎は病に倒れるのであった。明治18年2月、弥太郎は逝く。決戦半ばにして黄泉の世界に逝くとは、さぞかし無念であったろう。
弥太郎の評価
弥太郎亡きあと、三菱商会の重臣たちは、弟の弥之助を担ぎ、闘いを続ける覚悟を決めていた。このとき政府は調停に乗り出す。両者を合併させるのが政府案だった。共倒れになっては困る!というのが政府の判断だった。共倒れになれば漁父の利をさらうのは、外国商船であるからだ。裁定は三菱優位に動き出し、合併に向けて局面を切り開いたのは川田小一郎、荘田平五郎、近藤康平、加藤高明ら弥太郎の薫陶を受けた三菱重役たちだ。こうして誕生するのが三菱が株式の過半を握る日本郵船だった。
弥太郎は壮絶な闘いのなかで逝った。最期の一言は「東洋男児!」だったという。解釈はいろいろだが、竜馬の「海援隊」を夢見たのかもしれない。まさに政商ベンチャーと呼ぶにふさわしい最期であった。ただし評伝に残る評価を読む限り、あまり芳しい評価はない。喧嘩弥太郎、政商弥太郎、海坊主、強欲弥太郎などなど——である。そんな悪評をたたかれながらも不思議な魅力を持つ男だった。それは商売敵の三野村も益田も認めるところだ。弥太郎の人物評価はひとまずおくとして、ともかく彼は日本の商船史上の発展に大きく貢献したことだけは確かだ。閉塞状況にある現代の日本を見るにつけ、粗野に過ぎはしたが、いま必要なのは、こういう人物なのかもしれない。最後に弥太郎の事績を挙げておくならば、三菱重役など多くの人材を育てたこと、組織の三菱と呼ばれる近代的ビジネス組織を作り上げたことだ。川田は日銀総裁に、近藤は日本郵船社長、加藤は首相を務めるなど三菱は明治大正を通じて日本を担う多くの人材を排出している。(つづく)