事例で見る課題解決の勘所
会社の成長と労働時間の削減は両立できる
成功のポイント
- 残業させない仕組みを作る
- 売り上げも給与も落とさない
- 反対派を説得し、施策を貫く
働き方改革を実現するうえで、課題となっている1つが長時間労働だ。毎日のように遅くまで残業している、なかなか休みを取ることができない……。こうした労働環境は、社員のモチベーションを下げるだけでなく、健康問題にも関わってくる。また、少子化で人手不足が進む中で、長時間労働が常態化している職場は採用も難しくなってくるだろう。
一方で、単に残業を減らして休日を増やすだけでは、会社の業績に悪影響を及ぼす。休みは増えたが給料は減った、では従業員の理解は得られない。働き方そのものを見直し、労働時間を減らしながら売り上げや利益を維持していく仕組みを作る必要がある。
仕事が終われば早退しても給料を支払う
2年ほど前は従業員1人当たり年間150時間以上あった残業が、今は年間1時間に——。こんな働き方改革を実行した会社が、「出雲そば」などを製造する有限会社本田商店(島根県雲南市)だ。
社長の本田繁氏は、5代目に当たる。2013年、社長に就任した。「少し不純だったかもしれないが、家業を継ぐならお金を潤沢に使えて、休みが取れる会社にしたいと思った。よく考えれば、それは従業員も同じ。本当は身を粉にして働くより、『給料が多くて休める会社がいい』と思っているはずだ」(本田氏)。
そこで、製造工場の働き方を観察すると、一日の中で徐々に従業員の能率は落ちていることに気づいた。朝8時半に出社した従業員の生産性は昼頃にピークを迎え、その後は疲れで下がっていく。夕方になるにつれて、ミスの発生率も高まっていく。ミスをフォローする作業で労働時間が長引き、残業につながっていく。
本田氏は、残業せずとも済む生産体制の構築に取り組む。ところが、思わぬところから反発が出た。残業で疲れているはずの従業員だ。「残業がなくなって、給料が減らされるのは困る」という主張だった。これに対して、「一緒に効率化して残業がなくなれば、体を酷使しなくてもよくなる。生まれた利益はみんなに戻すから、協力してほしい」と本田氏は訴えた。
まず着手したのは、生産状況の進捗管理だ。これまでは在庫管理も生産量もしっかりとは管理していなかった。それを、その日に使わない原料材を極力持たないようにすると同時に、「生そば」「干しそば」などどの商品を製造しているかが一目瞭然で分かる生産管理システムを導入した。さらに、省力化のための投資も行った。例えば、梱包機を新しくして、これまで3.5人が携わっていたところを2人で済むようにした。
従業員の残業に対する意識改革を促進するため、本田氏はさらに思い切った制度を取り入れる。製造を予定していた商品すべてが出来上がったら、定時前でも早退して構わないというものだ。この場合、未就業時間についても給与の60%を支払うこととした。例えば、午後5時半までの勤務にもかかわらず、午後4時半に生産が終了したので早退したとする。この1時間が給与の60%分支給の対象となる。仕事がない職場に人員を配置しても意味がないし、何もしなくても給料がもらえるとなると長時間残業に後戻りしかねない。一方、家庭の事情などで、全額が欲しい従業員もいるかもしれない。そうした場合は、定時まで社内の休憩室での読書と感想文の提出を課している。しかし、ほとんどの従業員が早退しているという。
現在、本田商店は新たな挑戦を始めている。生パスタ製造だ。「そばは年配の方が好む。若い世代、特に女性と会社の接点を増やしたい」(本田氏)。また、年越しそばの慣習で、12月の出荷量は平常月の3~4倍に膨れ上がる。生パスタに進出することで、年末以外の時期の生産量を増やせば、生産余力を活用できるという狙いもある。既に売り上げの2割を占めるまでに成長している。
働き方の見直しや新規事業への進出によって、生産性も高まった。平均給与を時給換算すると2018年3月期は1,697円で、3期前と比べて40%増となっている。
休館日の売上減をサービス向上でまかなう
「休日を年間90日から105日に増やします。でも、売り上げも給与も下げません。だから、皆さん、知恵を絞って汗をかいてください」。
大分・別府で旅館「べっぷの宿 ホテル白菊」を運営するつるみ観光株式会社(大分県別府市)の社長、西田陽一氏は、2018年1月の年頭挨拶で、従業員にこう呼びかけた。
大幅に休日を増やせるのは休館日を設けたことが大きい。正月明け、夏休み明け、6月末~7月頭と、3つのオフシーズンに10日間ずつ旅館の営業をやめたのだ。休館による売上減の影響は1,500万円ほど。通常の営業日で賄おうとすると、1日当たり5万円ほどの売上増が必要になる。旅館の平均客単価は1万8,000円だから、1日に1~2組の宿泊客数アップを目標とした。
そこで、西田氏は、朝食と接客を充実させることで、宿泊客の満足度を高めようと考えた。ホテル白菊の朝食は、和洋バイキング形式だ。従来は、220席作れる10階の宴会場を開放していた。ところが、10階には厨房がない。料理や皿などは、地下の和食店と12階の洋食店から運んでいた。「これではシズル感のある料理を提供できない」(西田氏)と、12階の洋食店に朝食会場を変更した。120席しかないが、「食後の皿をこまめに片付けるようにしたところ、回転率が高まり、問題なく対応できた」と西田氏は説明する。
続いて、料理の提供方法を一新した。大分の名物料理「とり天」を例に取ると、以前は100人分をまとめて調理し、朝食会場では保温器に入れて提供していた。今は、オープンキッチンで調理人が宿泊客の目の前で、「もう少しですから、お待ちくださいね」と声をかけながら、フライヤーでこまめに揚げていく。このように、まとめて作り置きするスタイルから、こまめに出来たてを提供するスタイルとした。クロワッサンやバゲットなどパン類もこれまでは大型のコンベクションオーブンで調理人が大量に焼き上げていた。それを2台の小型コンベクションオーブンに切り替え、減り具合を確認しながらパンを焼き上げて出すようにした。担当はホールスタッフで、調理人は料理に専念できるようにしている。
和食は、地下の厨房で和食店の調理人がある程度まで仕込んでおき、盛り付けなどの最終工程は洋食店の料理人が受け持つ体制にした。和包丁の扱い方や和食特有の衛生管理などは和食店の料理長が指導している。白飯も、以前は大釜で炊いていたが、洋食店の厨房に15台の炊飯器を設置。順番に炊き上げることで、常に炊き立ての白飯を宿泊客が食べられるようにした。
「和食の調理人に“割り切り”をお願いすることもあった」と西田氏は振り返る。それまでの味噌汁は、調理人が朝早く出社して作っただしを用いていた。味に対する職人ならではのこだわりだ。しかし、会場で長時間、置いておかれているために風味が飛んでしまっていた。そこで、だしは既製品に独自の方法でオリジナルの味付けをし、朝食会場では小鍋で味噌汁を温めて提供する形にした。
もう1つのテーマであった接客については、着物が制服の女性の客室案内係は、ロビーで宿泊客を出迎えることができるように、予約担当や施設管理の従業員がサポートするようにした。
ホテル白菊では、月に2回、30代を中心とする各部門の従業員が集まり、業務改善について1~2時間のミーティングを開いている。その議論で、宴会場の準備はお客様対応ということで客室案内担当の着物の女性が行っていたが、施設管理などの男性は時間が空いているので代わりにできると分かった。その分、客室案内担当は接客時間を延ばすことができると同時に、勤務時間も短くなった。「別府でも着物の女性が接客する旅館は減っている。だからこそ、ホテル白菊の強みになる」と西田氏は話し、改善案が若手から出てくることを喜ぶ。
この結果、宿泊のクチコミサイトの評価が、1年の間に4.0~4.1から4.4~4.5へとアップ。稼働日数は減ったにもかかわらず、わずかながらも売上増を達成したのだ。
温泉地で知られる別府は、ホテルや旅館の激戦区だ。国内外の大手が進出しており、2021年までに部屋数は3割も増える。宿泊客と働き手の奪い合いが激化していくのは間違いない。「年休105日間を就業規則に明記して、県内高校で採用活動をしたところ、今年は9人が来てくれた。サービスレベルを高めつつ、働きやすい環境を作って定着率を高めていきたい」。こう西田氏は意気込む。
従業員にとってのメリットを明確に示す
現場にとって、働き方改革は“苦痛”が伴う。今までと同じことを繰り返しているほうが楽だからだ。後継社長が新しい施策を打ち出しても、「昔からいる幹部が反対しているから」と現場が動かず、実行に移せないという話はよくあることだ。
「会社を成長させよう」では、響かない従業員も実は少なくない。「会社の成長が大事と言っても、それは社長のためだろう」という見方をするからだ。それよりも「残業が減る」「休みが増える」と同時に「給与は減らない」という従業員個人にとってのメリットを訴えるほうが説得力を持つ。従業員の納得を得たうえで、ムダな作業を取り除き、付加価値を生む仕事に集中させる仕組みを作る。そうすれば、会社の成長と労働時間の削減という、一見、相反する結果を両立できるはずだ。
企業データ
- 企業名
- 有限会社本田商店
- Webサイト
- 従業員数
- 39人
- 代表者
- 本田 繁
- 所在地
- 島根県雲南市木次町里方1093-44
- 創業年
- 1951年
企業データ
- 企業名
- つるみ観光株式会社
- Webサイト
- 従業員数
- 180人
- 代表者
- 西田陽一
- 所在地
- 大分県別府市上田の湯町16-36
- 創業年
- 1950年